『万葉集』に「さ寝し夜は、いくだもあらず、這う蔦の、別れし来れば。。。。。。」という柿本人麻呂の長歌がありが、蔦の名は地面を這いつたわって伸びることから起った、さらに美しく紅葉すると楓に似ているので別名をツタカエデ、あるいは地錦などともいう。
平安時代から貴族の衣服の文様に使われたことが『源氏物語』や『枕草子』『栄華物語』などの文様によく出てくるのもその美しさが愛好されたためだろう。
しかし、ふしぎなことに、これを家紋にした公家は見当たらない。
家紋としいては室町時代のお「見聞諸家紋」に椎名、富田、高安の三氏が出ているのが初見のようだが、それ以前から使用されていただろうことは容易に想像できる。
江戸時代の蔦紋使用大名としては藤堂、松平、六郷の三氏が著明だが、旗本では百六十氏にのぼる。
松平諸氏は徳川の一門に連なるので初めは葵紋を使用していたが、後の将軍家に遠慮して蔦紋に替えている。
江戸時代には、上は将軍から下は花柳界の女性にいたるまでに大いに愛好された。
八代将軍徳川吉宗は将軍家としての自分の血筋が途絶えるのを心配して一橋、田安、清水の御三卿を立て、徳川家の本紋の葵の替え紋として蔦紋を用いた。
これなど蔦の生命力の強さにあやかり、子孫の繁栄を願ったものに違いない。
一方、花柳界の女性に愛されたのは、客に蔦のようにからみついて離さないという縁起をかついでのことであろうか?
当然ながら暖簾にも蔦紋が染めぬかれている。
蔦紋のバリエーションは約百種もある。
ほとんどが葉をデザインしている。
一葉から五葉まであるが、最も親しまれているのは、五葉の単純な形だ。
葉に切り込みを入れているのを鬼蔦という。
花を中心にした「花蔦」蔓を付した「蔓蔦」大きくデフォルメした「光琳蔦」や「利休蔦」それに「三つ盛蔦」「尻合わせ蔦」「頭合わせ蔦」なども見られる。
外輪のあるもの、ないものなどさまざまだ。
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