「★-1:『源氏物語』の植物文様
紫式部の「源氏物語」はいうまでもなく平安女流文学の最高傑作とされている。
女性の筆になるだけあって、さまざまな植物が描かれているが、五十四帖のタイトルにも植物やそれに関連のあるものが多い。
試みに挙げてみると、まず、桐壺から始まって、帚木(ははきざ)・夕顔・末摘花(すえつむはな)・紅葉賀・花宴・葵・賢木(さかき)・花散里(はなちるさと)・蓬生(よもぎう)・松風・菫(すみれ)・藤袴(ふじはかま)・真木柱(まきばしら)・梅枝(うめがえ)・藤裏葉・若菜・柏木・紅梅・竹河・椎本(しいがもと)・早蕨(さわらび)・宿木(やどりぎ)まで二十三項目に及んでいる。
以上のタイトルを含め、文中に出てくる植物の数は九十七種あり、単に花、若草、若木などといった具体的な植物名か特定出来ないものを除いても九十種に及んでいる。
そのうち家紋化されているものは四十七種ある。
植物紋は、八十八種あるから、その過半数が家紋になっているわけだ。
物語の中に「興ある紋つきて、しるき上着ばかりぞ(末摘花)とか「下襲の色、うへの袴の紋(葵)」など、紋についての記述がある。
このほかにも「浮紋(葵・若菜)」や「唐小紋(横笛)」などがり、多くは綾に織りなしてある紋章だ。
しかし、これは家紋ではなかった。
紫式部の生きた時代はまだ家紋は存在しなかったのだ。
家紋が起ったのは、およそ二百年後の平安末期のことである。
物語中の草花で多く出てくるものの順位は松・桜・梅・藤・紅葉・竹・橘・山吹・撫子・蓮となっている。
平安の人々の植物の好みが反映しているようだか、じつは後世に作られた家紋の使用度の高いのもが大半を占めている。
むかしも今も、人の植物への好みはかわらないということだろう。
上へ
★-2:西郷隆盛の「南州菊」
西郷隆盛を出した薩摩の西郷家は九州の名族菊池氏の後裔で、かっては菊池氏を守護する三支族の一家だったという。
そこで家紋も菊池氏にゆかりのある菊の葉を用いている。
三つ葉が外向きに配されている紋形なので「三つ葉菊」だが、鹿児島では「西郷菊」「南州菊」と呼んでいる。
隆盛を祭る南州神社の社殿の幕にもこの紋がつけられている。
西郷家にはこれとは別に「抱き菊」といって、二枚の葉が十六の花弁を抱いた紋形のものもある。
これは明治天皇が維新の大業をなしとげた隆盛の功を賞して下賜されたもので、天皇は「中央の華は朕であり、抱き二葉はすなわち汝である。
朕を両脇から支えて天下鎮定のために尽くせよ」との有り難いお言葉を賜ったという。
菊紋はいうまでもなく天皇家専用の紋章であるが、そうなったのは鎌倉時代の初めに後鳥羽天皇がこの文様をことのほか愛好され、衣服、調度品、御剣、御車の末まで菊模様をつけられてからだ。
そうなるといままで菊紋を使用していた廷臣たちも、しだいに遠慮して使用をやめざるをえなくなる。
そして菊紋は自然に天皇家専用になっていったのである。
天皇が武家にこの菊紋を下賜するのは、後醍醐天皇が足利尊氏に「菊紋」を楠木正成に「菊水紋」を下賜されたのが最初だ。
以来、織田信長、豊臣秀吉などの天下人に下賜された。
もっとも、徳川家康だけは辞退しているが、維新後の明治四年に政府は「菊紋は皇族以外は使用一切まかりならぬ」とう布告を出している。
その高貴な菊紋を頂戴したのだから、隆盛が感涙にむせんだことはいうまでもない。
上へ
★-3 :初の家紋事典「見聞諸家紋」
鎌倉時代の初期に始まった武家の家紋はしだいに家格を示すものとして重要視されるようになっていった。
その一部は「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」などに描かれているものの、多くは「太平記」に「左巴・右巴・月に星・片引き両・傍折敷(かたおしき)に三文字書いたる旗ども六十余流れ」などと記されているだけで、肝心の図形は分からない。
室町時代に入って関東公方(くぼう)の足利持氏が長倉義成を討ったさまを記した「羽継原(はつぎはら)合戦記」も従軍諸将の家紋が二百数十も列記されているが、図形は出ていない。
そこで登場したのが、「見聞諸家紋(けんもんしょかもん)」だった。
これは室町幕府八代将軍義政のころの将軍家、守護大名、評定衆、奉行衆、奉公衆、守護被官、国人層などの家紋二百六十一を描き、解説したものである。
これは正確な成立年代や編集者は不明だ。
実形から使用家まで記載されているから、史料的な価値がきわめて高い。
その後に上杉謙信が関東諸将二百五十一家の紋を収録した「関東幕注文(かんとうまくちゅうもん)」や三好長慶が支配下の阿波諸家の紋を集めた「阿波国旗元幕紋控(あわのくにはたもとまくもんひかえ)」などもある。
江戸時代になると幕府は三百諸候や旗本に自家の系譜を提出させ「寛永諸家系譜伝」を編集した。
それを後に改訂増補したのが、「寛政重修諸家譜(かんせいちゅうしゅうしょかふ)」である。
これは二千百三十三家の系譜と家紋を収録したものである。
このほか民間では大名と旗本の紳士録ともいうべき「武鑑(ぶかん)」が刊行されていた。
家譜は時代によって変遷してゆくわけだから「武鑑」も江戸時代を通じて次々と改訂版がだされている。
上へ
★-4 :とんだ紋ちがいの刃傷
延享四年(1747)八月15日、月例の拝賀式に諸大名が江戸城に総登城したときのことである。
肥後(ひご)熊本藩主の細川越中守宗孝が大広間の厠(かわや)に行くと、突然、板倉修理勝該に背後から斬り付けられた。
加害者の板倉修理は厠の中に隠れていたが、ほどなく捕らえられて切腹を命ぜられた。
一方、深手を負った宗孝は翌日死去した。
修理が刃傷に及んだ理由は、修理には日頃から狂気の振る舞いがあったので、本家の板倉佐渡守勝清の計らいで廃嫡す驍アとにした。
それを恨んだ修理は殺そうとうかがっていて、誤って細川宗孝を殺してしまったのだった。
それというのも、板倉家の家紋は巴(ともえ)を九つ描いた「板倉九曜(いたくらくよう)」で細川家の「九曜紋」とよく似ている。
そこで誤って宗孝に斬り付けたのだった。
この事件は江戸っ子の間でも大評判になりさっそくに川柳に
九つの星が十五の月に消え 剣先が九曜にあたる十五日
などと詠まれている。
殺された細川家では当主を失って大騒ぎとなった。
そしてまた間違えられてはたまらぬとばかり、家紋をそれまでの「寄り九曜」から「はなれ九曜」に改めた。
「寄り九曜」とは中央の円に周囲の八つの小円がぴったりついて囲んでいるんもので、「はなれ九曜」は中央の大円から小円がはなれているものだ。
しかし、この事件があってから、民間では九曜紋は「苦労紋」とか「苦悩紋」などと呼ばれ嫌われ、使用するのを敬遠されるようになったという。
上へ
★-5:赤穂事件関係者の紋
四十七士の統領大石内蔵助良雄の家紋は巴で、芝居や映画でお馴染みだ。
討ち入りの陣太鼓も巴の紋章がある。
四十七士の中でも人気者の堀部安兵衛の家紋は「四つ目結の二つ重ね」で中央が重なっているので「七つ目結」のようになっている。
主君浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介義央に刃傷したのがこの事件の発端だが、内匠頭の浅野家は本家浅野氏の分家だから、本家の鷹の羽を家紋にしている。
巷説では勅使饗応役の内匠頭が指南役の上野介にワイロを贈らなかったので意地悪され、頭にきた内匠頭が刃傷したということになっている。
そこで「餌を飼わぬが鷹の羽の落ち度なり」などと川柳にも詠まれている。
「餌を飼わぬ」とはワイロを贈らなかったことをいっている。
すっかり悪役にされた吉良上野介の家紋は、さすが室町将軍足利氏に連なる名門だけに「丸に二引両」「五七桐」という立派なものだ。
討ち入りのとき吉良邸で浪士を迎撃して斬られたなかに、上杉氏から輿入れした上野介夫人に従ってきた家老の小林平八郎がいる。
その家紋は「六つ重ね井桁の丸」という珍しいものだ。
同じく吉良の付け人の清水一学は「三つ団扇」だったという。
この事件で割りを食ったのは上杉氏だった。
当時の上杉氏の当主は上野介の実子綱憲だったが、討ち入りの際、上杉氏はとうとう応援を出さなかった。
そこで狂歌に、「鷹の羽(浅野の家紋)の勢い強き紋どころ、竹に雀(上杉の家紋)はちゅう(忠)の音も出ず」などと詠まれている。。。。
上へ
★-6:墓と家紋
今日、ほとんどの墓石には家紋が刻まれている。
これは北は北海道から南は鹿児島まで、まんべんなく家紋がついている。
ただし沖縄だけは昔から風俗が違うせいか、あまり目につかない。
しかし、墓石に家紋を刻む風習は、じつはそれほど古くはない。
江戸時代初期(1596~1624)の墓石にはほとんど家紋はなく、時代がさがってくるにしたがい徐々に増えてくる。
それでも幕末の安政年間(1854~59)ころは30パーセント台と推定される。
そして明治以降、急速に増えていって、現在のような状況に至っているのである。
墓は先祖の居所だから神聖な場所だ。
したがって家のシンボルである家紋をつけるのは自然の感情の発露であろう。
ところが、いざ墓に家紋というときに「家紋が分からないがどうしたらいいか」と訪ねてくる方が意外に多い。
これは墓にかぎらず一般的に家紋の探しかたにも通じることだが、まず位牌、家具、文書、お寺の過去帳などから探す。
では、親戚もなく、ルーツをさぐる物が一切ない、天涯孤独という場合はどうするか。答えは次のとおりだ。
1:妻方の紋でもよい。
2:同姓者の紋を借りてもよい。
3:新しい自家の紋を創設してもよい。
ただし、一旦きめたらそれを自家のシンボルとして大切にする気持ちが必要だ。
好みにまかせて、墓石、礼服の紋付、道具類の家紋がばらばらだというようなことにならぬよう心得るべきだろう。
上へ
★-7:平家の赤旗・源氏の白旗
平家と源氏がそれぞれ赤旗、白旗を掲げて戦ったことは「源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)」に「西のはたには平家、赤旗を捧げて固め、東の河原には源氏、白旗を捧げたり」などとあり、「源平合戦図」や「平家物語絵巻」でも赤白の旗が入り乱れて戦う様が描かれていることでも分かる。
しかし、なぜ平家が赤旗で源氏が白旗なのか、その由来は詳らかではない。
この時代はまだ家紋が定着していなくて、単に敵味方を識別するためのものだったのだ。
一般には平家の家紋は蝶ということになっている。
美しい揚羽蝶紋は平安後期にはすでに図柄が完成し、平家の公達などの文様に用いていたという。
壇の浦で平家一門が海に沈んだとき、男の魂は抜け出して蝶になったという伝説がある。
後世、織田信長はじめ平家の末裔と称する武家の多くが揚羽蝶を家紋としている。
そのために蝶紋がいつしか平家一門のシンボル・マークになったのであって、源平合戦当時、すでに平家の家紋だったとは考えられない。
一方、清和源氏の家紋は「笹竜胆(ささりんどう)」というのが通り相場だ。鎌倉幕府ゆかりの神奈川県鎌倉市の市章に「笹竜胆」を用いている。
しかし実際には村上源氏、宇多源氏もこれを用いており、清和源氏専用というわけではないようだ。
しかし江戸の大名や旗本に清和源氏の末裔と称する家のほとんどが笹竜胆を家紋としている。
後世になって家紋として定着したものとはいえ、笹竜胆といい蝶といい、武家の勢力を二分する源平の棟梁の家紋としては優美なものを選んだものである。
上へ
★-8:三本足の熊野の烏
中国では古くから太陽の中に烏が住んでいて、宇宙を支配していたという伝説がある。
しかし、この烏は三本足の霊鳥だったという。
この思想が日本に伝わり、三本足の烏を神紋(しんもん)や神使としている神社は三重県の伊勢神宮、京都の祇園神社、静岡県の三島神社、大坂の住吉神社、新潟県の弥彦(やひこ)神社など数多い。
代表的なところでは和歌山県の熊野三山の本宮、中宮、新宮も神紋として三本足の烏を用いている。
初代神武天皇は紀伊半島の熊野から北上して大和に攻め入ったが、そのとき山深い土地を道案内したのが熊野神社の神使の「やたがらす」だったという。
熊野神社は朝廷から庶民まで広く信仰され、善男善女のあこがれの聖地だった。
そこで「午王宝印」も普及し、江戸時代にはこの紙に誓文を書くのがはやった。
花街で遊女たちが二心ない証しとして、しきりに客とこの誓文を取り交わし、指先を針で突いて血判した。
もし背いたら神罰が下るというわけだが、果たしてどれだけの効果があったものか。
江戸時代でも烏は農家や神社などで吉凶を占う判断にされた。
たとえば農家では正月に烏に餅を投げ与え、その食べ方で吉凶を占い、米をまいて烏の啄ばみ方を見て種まきの時期を決めたりしていた。
また、神社では烏に供物を与え、神意うかがうのが「とりばみ神事」で愛知県の熱海神宮や広島県の厳島神社など、多くの神社で行われている。
上へ
★-9:日の丸を紋章にした武将
幕末まで、日本には国旗、つまり日本を代表する紋章がなかった。
諸大名にとってはそれぞれの藩が「国」であり、日本国の一部という意識がなかった。
したがって日本の「印」なども不要だったのである。
そうした時「日の丸」を日本の総船印しようと提案し、実現させたのは薩摩藩主島津斉彬(なりあき)だった。
古くから人々が自国を、「日出づる国」とか「日の本」などと称していた日本の国旗として、「日の丸」ほどふさわしい紋章は他にないだろう。
明治三年一月」に「日の丸」は正式に日本国旗として制定されている。
「日の丸」は日数である。
太陽をシンボライズしているのだから、太陽信仰から起った紋章であることは勿論だ。
鎌倉以来、多くの武将が「日の丸」の文様を愛用している。
源義朝や義経は日輪を描いた扇を使っているし、「源平盛衰記」には那須与一が屋島の合戦で射落とした扇にも「日の丸」があったと記されている。
甲府武田氏には伝来の二つの重宝「御旗(みはた)、楯無(たてなし)」があるが、御旗というのは始祖新羅三郎義光から相伝されてきたという日章旗で、山梨県の雲峰寺にいまも保存されている。
楯無とは楯も要らないほど堅固な鎧のことで、こちらは菅田天神所蔵の鎧(よろい)がそうであろうとされている。
武田信玄がこの旗をひるがえして戦ったという川中島の合戦では、相手方の上杉謙信も「日の丸」の軍旗を用いている。
賎ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一人である加藤嘉明も紋章として「日の丸」を愛用し、慶長五年(1600)に行われた天下分け目の関ヶ原の合戦の図には、西軍の小西行長の陣に「日の丸」の紋章が描かれている。
上へ
★-10:蒙古襲来絵詞の紋
鎌倉時代の文永十一年(1274)と弘安四年(1281)の二回にわたって蒙古は日本に襲来してきた。
それを迎え撃った九州の諸将の中に肥後(熊本県)の竹崎の住人で竹崎季長という御家人がいて、二度の蒙古軍との戦闘での自分の活躍ぶりを絵師に描かせた。
それが「蒙古襲来絵詞(もうこしゅらいえことば)」上下二巻である。
季長がわざわざこれを描かせたのは、鎌倉幕府に自分の戦功を認めさせ、恩賞にあずかるためだったのだか、当時の武具や武士の風俗、蒙古船の構造や「鉄砲」を放つ蒙古兵の戦闘ぶりなどが活写されていて、貴重な史料になっている。
興味深いのは、このとき、参陣した九州の諸将である鎮西奉行の太宰少弐景資の旗紋は「四つ目結」である。
竹崎季長の旗紋は同じく四つ目結の目を一つ除いて吉の字をいれた「三つ目結に吉の字」になっている。
菊池武房の「二枚並び鷹の羽」は阿蘇神社の神紋を拝領したものだ。
絵詞は敵の生首を太刀や長刀の先に刺して引き揚げる武房隊の雄姿を描く。季長が敵中で苦戦に陥ったところへ救援にかけつけた白石通秦の旗紋は「軍配内輪の中に松竹鶴亀」とややこしい。
大矢野種保と草野経永は同じ「丸に桐」である。
あるいは同族なのか。
島津久経の「鶴の丸に十字」は鶴も十文字も筆書きの素朴な文様だ。
十文字のほうは島津氏が江戸の大名になってからの代表紋になったが、鶴丸はきえている。
その他、城次朗の「連銭(れんせん)」や井芹高秀の「二株の菖蒲の中に井一字」なども見える。
上へ
★-11:夏目漱石と森鴎外の家紋
明治の文豪、森鴎外の本名は森林太郎。
島根県津和野町生まれで、家は代々津和野藩の藩医だった。
この森家の家紋は柏である。
しかし、そんじょそこらにある柏紋とはまるで違う。名付けて「乱れ追い重ね九枚柏」という。
具体的に説明すると、九枚の柏の葉が乱雑に重なりあっている紋形だ。
普通の紋のように左右シンメトリックな美しさなどは最初から放棄しているような紋である。
現在の森家でも、この家紋の由来は分からないそうだ。
天下の珍紋の一つに挙げられるだろう。
柏は元来が神木である。
古代はこの葉に食物を盛り、神に供えた。
一方、苗字の森は神域を表している。
したがって森の苗字に柏紋はまことに似合いの組み合わせといえないこともない。
もう一人の文豪、夏目漱石の本名は金之助という。
その祖は信州夏目庄の地頭で、子孫が徳川氏に仕えた。
家康が信玄に惨敗三方ケ原の合戦では夏目吉信が家康の身替わりになって討ち死にしている。
旗本の夏目家の門前には家紋の「井桁に菊」の紋を据えていたので、そこを菊井町(現在の新宿区喜久井町)といった。
そこが漱石の生地である。
近くに夏目坂という地名も現存する、「井桁に菊」の紋は本来は「籬架菊(ませきく)」といい木や竹を組んだ垣根に菊を植えた風流な紋である。
もとは写実的な紋だったが、しだいに図案化されていって、夏目家の紋のように、井桁の中に菊の花を配した簡単なものも「籬架菊」と称するようになっていったのである。
森鴎外家の紋と同じく珍紋の部類に入れられる。
上へ
★-12:裏紋と女紋
人生に表裏、町にも表通りと裏通りがあるように、紋にも表紋と裏紋がある。
表紋は定紋、本紋、正紋などともいう。
江戸時代の武家の場合は、幕府に届け出している正式の紋である。
だから、やたらに変更することはできない、参勤交代や登城、儀式のときにはこれを用いる。
しかし、大名、旗本でも私用での外出ということがある。
そうした場合につけるのが裏紋だ。
別紋、控紋、替紋などともいったが、要するに非公式な家紋である。
たとえば大名が吉原あたりに遊びに行くときに、紋付に威儀を正して繰り込むというわけにはいかない。
たちまち身元がバレてしまう。したがって裏紋の着流しでお忍びで出かけるわけである。
非公式の紋としては、もう一つ女紋というものがある。
家紋は文字どおり家の紋である。
江戸時代までは「女子は三界に家なし」などといわれてきた。
若い時には親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従うのが女性だった。
独立して家を持たなければ家紋もないのは当然のことだ。
しかし、定紋とは別に、女性が非公式に女紋を使用することはあった。たとえば武家の娘が嫁に行く場合に、実家の紋をつけた輿入れの品々をもたせる。
ときには女らしい新紋をつくることもあった。
嫁ぎ先の家紋が兜や剣などと男っぽいものの場合、女性らしい紋を新たに持っていくこともあった。
武家ばかりでなく、庶民の嫁入りにもやはり実家の紋を持っていくことがある。
一般的に関西では母の紋を用いる場合が多かったようである。
夫唱婦随の封建社会にあって、女性が自己を主張できるものの一つが女紋だった。
上へ
★-13:ライバル同士の巴紋
平安時代も百五十年ほどたって、藤原一門が都で安逸をむさぼっていた天慶(てんぎょう)二年(939)、草深い坂東の地でみずから新皇と称し、朝野を震駭させた異端児が現れた。
平将門(たいらのまさかど)である。
猛威をふるって関八州を支配におさめたが、下野の豪族藤原秀郷に討たれて滅亡した。
いわゆる天慶承平(じょうへい)の乱というのがこれだ。
宮廷貴族にとっては反逆者かもしれないが、庶民から見れば時の権力者に敢然と抵抗した英雄ということになる。
そこで将門の死後、その霊は各地の神社に祭られ、崇敬されてきた。
東京大手町にある将門の首塚などは、動かすと祟りがあると言い伝えられ、いまもビルの谷間にあり、いつも香華が絶えない。
東京の神田明神も将門を祭る神社の一つで、神紋は卍である。
だが、この神紋はオタマジャクシのような形の部分が痩せ形で細っそりしていて「将門巴」と呼ばれている。一方、栃木県佐野市の唐沢山神社は将門を討った藤原秀郷を祭っていて、こちらも神紋は巴だが、オタマジャクシがふっくらとした形で「秀郷巴」とよばれている。
二つ並べてみれば違いは一目瞭然だ。
やはり討たれた将門と討った秀郷との違いだろうか? 痩せ巴の将門の子孫からは相馬氏くらいしか出てないが、肥え巴の秀郷子孫からは奥州藤原氏をはじめ佐藤、後藤、尾藤、伊藤、武藤、結城、下河辺、長沼など、いわゆる秀郷流の諸氏を輩出している。
ちなみに、全国の神社の紋でもっとも多いのは巴紋である。
巴はまさに神紋の王者といいっていい。
上へ
★-14:疾駆する島津の十字紋
関ヶ原の合戦を詳細に描いた「関ヶ原合戦図屏風」が彦根の井伊美術館や岐阜県関ヶ原町役場にある。
それには合戦に参加した東西両軍の武将たちの紋や旗が無数に出ていて興味深い。
図は右方が徳川家康の東軍、左が石田三成の西軍という配置になっているが、その中央に左から右へ一団となって突進している一隊が描かれている。
西軍の島津義弘隊である。
慶長五年(1600)九月十五日、東軍八万五千、西軍十万の軍勢が関ヶ原で激突したが、八時間に及ぶ激闘はついに東軍の勝利に終わった。
このとき島津義弘は心ならずも西軍に加わっていたが、最後まで戦いに参加せず、形勢を観望していた。
そして西軍が壊滅したと見るや、一団となって東軍の真っ只中に突入し、悲壮な敵中突破を敢行したのだった。
このとき島津隊がひるがえしていたのが、「丸に十字」の旗だった。
その数は十三本、捨てられた陣幕にも同じ紋が描かれている。
島津氏の「丸に十字」の紋は「見えた見えたよ松原越しに、丸に十字の帆が見えた」と小原節でおなじみだが、島津氏がなぜこの紋を使用することになったのかは分からない。
島津氏の祖、忠久が着用したとされる甲冑に十字紋があるが、これが最古のものだ。
忠久は源願朝の落胤ともいわれ、鎌倉時代初期の人だから、島津氏の十字紋は八百年の歴史を持っている。
初期は「蒙古襲来絵詞」にあるように、単に草書体で十の字を書いたものだったが、しだいに図案化され、江戸時代になって丸で囲む形が定着したのである。
上へ
★-15:歌舞伎の紋争い
役者の紋は、いわば登録商標のようなものだったから、気に入ったからといって他の役者の紋を勝手に使うわけにはいかなかった。
本家から分家する一門の場合でも、宗家に遠慮してデフォルメするのが普通だった。
たとえば市川左団次は市川家の「三舛(三枡ーみます)」の中に「左」の字を入れ自分専用の紋を作った。
中村福助は先代の「三つ対脹ら雀(みつむかいふくらすずめ)」のでデザインはそのままだが、白黒を逆にした陰紋にしている。
役者はこうした紋を自分のシンボルとして、衣装はもちろん用具、引き幕、暖簾、風呂敷、提灯にいたるまで散らして宣伝効果を上げていたのだ。
こういう厳しいしきたりの中で、紋争いも起った。
市川団蔵は初代市川団十郎に可愛がられ、紋も市川家の「三舛」を使っていたが、二代目団十郎とは仲が良くなかった。
正徳五年(1715)十一月に団蔵が森田屋で「早咲女島原」の荒獅子男之助を演じたとき、二代目団十郎とついに喧嘩別れとなった。
そのとき二代目が、「以後、市川家の「三舛」の紋の使用はまかりならぬ」と申し渡すと、頭にきた団蔵は「ならばこうするわ」とばかり、「三舛」の紋に「一」の字を引いたという。
その後、間に立つ人がいて、二人は十六年後の亨保十六年(1731)にようやく和解し、団蔵はまた「三舛」を用いるようになったが、枡の形は正方形にしないで、縦長の三舛にしている。
同じ紋は使わないと意地を張ったのか、遠慮したのかは分からない。
上へ
コラムについては実用之日本社発行:「家紋--知ればしるほど」
監修:丹羽基二氏(文学博士、家紋、姓名、知名研究科)から抜粋させていただきました。
|